伝統とは

http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20050816&a=20050816-00000003-ykf-spo

広岡激怒「バカにするな、星野なるならOBやめる」

ほほう、やめてもらおうじゃないの。あたしゃとめませんよ。お呼びがかからないから、ひがんでいらっしゃるのか?

「私は、星野が憎くて言ってるわけではない。だが、巨人というチームは、長年にわたって野球界をリードし、選手は技術から立ち居振る舞いに至るまで特別な教育を受けてきた。普通のチームと違う。その伝統、プライドを死に物狂いで守ってきたのがOBですよ。そのOBに相談もせずに、外部招聘(しょうへい)に動くとは、なんたることか。なぜOBを活用しないのか。心あるOBはみんな怒ってますよ」

それでは、外部から大金をはたいて選手を呼び寄せる体質についてはどのように説明をしてくださるのか?
ま、そんなことはどうでも良い。ここで言いたいのは二つ

広岡氏が述べている「伝統」の持つ価値について。

伝統を端的に定義すると「古くより伝えられこれからも伝え継がれるべき習慣、技術、またはしきたり」といったところか。しかしこの伝統、伝え方が曖昧であると、ヘンテコに伝わる、または何故コレが伝わっているのかが分からなくなる。もちろん、社会環境も刻々と変化しているとすれば、仮に正しく伝えられたとしても、それぞれの時代にあっているのかどうかという問題が生じる。
「まず伝統ありき」という考え方は、保守の象徴であり、発想の阻害の要因になる。なにか、変えなければならないときや、いままで守られていた伝統の趣旨に疑問を感じたときはその伝統を一度壊してみるのが手っ取り早い解決方法である。壊したときに、その伝統の持つ価値を再認識することもある。そのような再認識がなければその伝統は限りなく悪しき伝統に近いといえよう。巨人という球団もそのような過渡期にきているということだ。

新しいことを試すときの困難

新しいことをする、または広めるときには反発がつき物である。この件で言うのであれば、外部の球団出身の星野を監督に呼ぶという試みのことである。コレに対して反発するのはOBの保守派である。OBにとっては常識はずれなわけである。球団にとって見れば、OBには人材がいないから視線を広くしてみただけのことである。両者を見れば対立しているのであるが、ひとつだけ共通しているのは「良かれと思って」やっているということだ。ただ、前提となる情報と意識が違うためにこのような事態を巻き起こしてしまうのである。なんともむずかしい。
新しいことは試してナンボなので大いにやって欲しい。それが正しいかどうかはやってみてから判断することだ。そのときに「バカ」と呼ばれても300年後には「天才」と呼ばれることもあるわけだし、逆に一時の「英雄」は歴史によって「侵略者」とも言われるケースもあるわけである。本人がすばらしいかどうかは他人が決めることであり、その行いが正しかったどうかは歴史が判断する。


ま、ぐたぐた書いたけど、広岡って人は「野球とベースボールは違う」と言って、一度千葉ロッテからバレンタイン監督を追い出した男であり、「管理野球」の象徴的な存在だからね。筋金入りのカタブツ。すきになれん。