やっだぁ

今日は、どこぞの国の、経済丸投げで外交オンチな首相を痛烈に批判する内容にしようとしたが急きょ変更して、うちの息子の生活について書いてみることにした。

意思表示

意思を表示できるかどうかは法律行為を行ううえで非常に大切な要素である。いまウチの息子もその意思能力をつけつつある状態のようである。何かに対して興味を持つ場合は指をさすようになったのは前述したが、何かを拒否するときに首をそむける、さらになにやら言葉を発するのだがそれが「やっだぁ〜!」に聞こえるわけである。お客さん!だれも教えたつもりは無いんですけど…。初めて発する言葉が「ぱぱ」でも「まま」でもなく「やだ」?人生は筋書き通りには行かないもので、その意外性は笑いを生む上で大切な要素になる。

手拍子

どうやら音楽好きのようである。音楽をかけるとそれに合わせて手を叩いて足踏みをする。でもなぜか中腰である。ショルダーチャージを受けても簡単には倒れそうにも無いそのスタイルはなんとも緊張感に欠ける。笑いは時として緊張の糸がほどけたときの副作用をという形をもって作用することがある。

ねない

寝かしつけは至難の業である。この息子は人の腕の中でしか寝ることが出来ない。つまり、抱っこなワケであるが。でも、「寝かしつける」という表現は親の勝手で作られた日本語で、寝かしつけられた本人にとっては不本意そのものである。逆を言えば、寝かしつけで寝るということはありえないという仮説が俺の中にある。一般的に「寝かしつけられた」場合、それは親が「寝かしつけた」のではなくたまたま子供が「眠かった」だけで寝るきっかけを親が与えただけなのである。つまり、眠くない子供を親の「寝かしつけ」で眠らせるのは至難の技であるということ。親は子供が眠くなるまで待たなければならない。要するに、眠いそぶりを見抜くのが寝かしつけの立場の真価が問われるわけである。ところで余談だが、この「要するに」という言葉、この言葉を使いこなしている人が世の中にどれだけいるだろうか?おそらくこの「要するに」という言葉を頭に出したあと、ダラダラとまとまりの無いことをしゃべる人をよく見かける。この「要するに」という言葉、その意味は今までしゃべったことを要約するときにつける言葉である。要するにという言葉を使った場合はその一文で言い切るのが妥当といえる。「要するに」という言葉を使ったにも関わらす話が要点を得ず、要約できなかった人は罰金刑にでもしたらどうだろうかね、大臣様。